教会委員の一員となることになりました。
お久しぶりです。元気です。
わたしがカトリックの洗礼を受けてから半年過ぎ、今年の6月でやっと一年を迎えるわけですが、なんとこの度、教会の中枢、教会委員に抜擢していただきまして、来年度から動く予定となりました。
ミサのご案内係はさせていただいてたんですが、まさか教会委員になれちゃうだなんて、うれしいことでございます。
神様が選んでくれたのかな!
教会委員というものがあるのは知っていたのですが、どういった経緯で、どういう人がなるものなのかは知りませんでした。
わたしの場合はお電話がかかってきました。
生きているこういう機会もまだまだあるのですね。
教会側としては、信徒全員ひとり一役やって欲しいようなことがどこかに書いてありましたが、なかなか手を挙げる人はいないようです。
同じ講習を受けて同じ日に洗礼を受けた人たちも、おミサで会う方はたったひとりだけです。
その方はわたしがご案内係をしているのを知ると、ご自分で名乗り出てご案内係の一員となりました。
他の方どうしてんでしょうね?
ご奉仕せよとまではいいませんけど、おミサに来ないってなんでかな。
ファッションカトリックかな。
取り敢えず洗礼受けてクリスチャンネームゲットだぜって感じなんですかね。
一応一年かけてお勉強したのに、勿体ないなあ。
それぞれどうして洗礼を受けようと思ったのかの発表みたいなことをしたことがあるのですが、みなさんそれぞれもっともらしい理由でして、なるほどなるほどと思っていたのに、なんかなんでかな。
教会に通って洗礼を受けるまでには、教会に行こうと思う過程があるわけで、それには理由があると思うのですが、それってお導きではないのかなとわたしは思っています。
お導きがあったから教会で勉強して洗礼まで受けようと相成ったのではないのかなって。
それを無駄にしちゃうの勿体ないなあ。
ところで、最近宗教についてよく考えているのですが、今の宗教って昔のキリスト教とかよりもずいぶん緩くなっているんですよ。
昔は顕啓で、いろいろ約束事もあって、いまほどナチュラルなものではなかったのですが、その背景ってなんだろうな、とか、宗教、ここではカトリックが、今みたいに存在が薄くなった背景とは何なんだろうなとか。
何か明確な違いがあるからそういう違いが生まれているのだと思うのですが、これだ!っていうのがわからないでいます。
ついでに、宗教って何なんだろうなって考えたりもするのですが、それは死の恐怖から逃れるためなのではないかと思っています。
聖人となった昔の方たちの名言とか見ていると、死後の世界に固執しているような言葉を見受けることが多々あります。
カトリックは死後帰天して永遠の命を授かれるというものなのですが、やはり死が怖いからこそそういったことを信じて、或いは縋って、そして宗教というものに辿り着くのかなって。
それが悪いことだとは全く思いませんが、それが宗教の正体なのかなって思うと、なんか味気ないなとは思います。
わたしは個人的に死は全然怖いとは思わないんですけれども、わたしのような人間が宗教に入るって、果たして意味あったのだろうかとも思います。
心のよりどころとか、そういったものも特に求めてはおらず、ただただ興味が半端なかったなのですけどね。
だからわたしにとっての宗教と、他の皆さんにとっての宗教って、概念的に少し違うのかもしれないなって思ってます。
他の人の、宗教とは何ぞやっていう見解も機会があったら聞いてみたいです。
なんかそういうの考えれば考えるほど面白いです。
教会委員に携わるにあたり、もっとカトリックのこと詳しくなりたいし、しっかり教会の一員としてお仕事できたらいいなと思っています。
という、意気込みでした。
ではまた。
敬礼!